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ミャンマー
ミャンマー連邦(―れんぽう)、通称ミャンマーは、アジアの国家|国。首都はヤンゴン。東南アジアのインドシナ半島に位置し、国境を中華人民共和国|中国、ラオス、タイ王国|タイ、バングラデシュ、インドと接する。
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| 国の標語 : ''なし'' | |||||
| 公用語 | ビルマ語 | ||||
| 首都 | ヤンゴン | ||||
| 国家平和発展評議会議長 | タン・シュエ | ||||
| ミャンマーの首相|首相 | ソー・ウィン | ||||
| 面積 - 総計 - 水面積率 | 国の面積順リスト|世界第39位 1 E11 mイ|678,500平方キロメートル|kmイ 3.1% | ||||
| 人口 - 総計(2004年) - 国の人口密度順リスト|人口密度 | 国の人口順リスト|世界第26位 1 E7|42,720,196人 63人/kmイ | ||||
| 国内総生産|GDP (PPP) - 合計(2003年) - 1人当たり | 国の国内総生産順リスト|世界第57位 788億ドル 1,900ドル | ||||
| 独立 - 日付 | イギリスより 1948年1月4日 | ||||
| 通貨 | チャット (通貨)|チャット | ||||
| 時間帯 | 協定世界時|UTC +6:30 | ||||
| 国歌 | ミャンマーの国歌|Gba Majay Bma (We Shall Love Burma) | ||||
| トップレベルドメイン|ccTLD | .MM (旧: .BU) | ||||
| 国際電話番号の一覧|国際電話番号 | 95 | ||||
国名
正式名称のビルマ語表記は、右の表の国旗の上を参照。ラテン文字転写(一例)は、Pyidaungzu Myanma Naingngandaw (ピダウンズ・ミャンマー・ナインガンドー)。通称は、Myanma Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。1989年以降の公式の英語表記は、''Union of Myanmar''(ユニオン・オブ・ミャンマー)。通称は ''Myanmar''。1989年以降の日本語表記は、ミャンマー連邦。通称は、ミャンマー。1948年から1974年まではビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国、1988年から1989年まではビルマ連邦。通称は、独立以前から一貫して、ビルマ。漢字で緬甸と表記され(読みは「ビルマ」)、緬と略された(読みは「メン」。泰緬鉄道など)。緬甸は、中国語からのそのまま輸入されたもの。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語からもたらされた。1989年6月18日に軍事政権は、国名の英語表記を、''Union of Burma''(ユニオン・オブ・バーマ)から''Union of Myanmar''に改称した。軍事政権が代表権を持つため国際連合|国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。また日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続ける社もある。アウン・サン・スー・チー|アウンサンスーチーなど軍事政権の正当性を否定する側は、改名が軍事政権による一方的なものだとし、英語国名の変更を認めていない。タイの英字紙、英英国放送協会|BBC、『ワシントン・ポスト』などの有力英語メディアの一部、および主要な人権団体は「ビルマ」の呼称を続けている。アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「ビルマ」とし、欧州連合|EUは「ビルマ」と「ミャンマー」を併記している。ビルマ語では、「ミャンマー」も、英語の''Burma''(バーマ)の由来となった「バマー」も同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多いという違いがあるだけで、国民は特に意識することなく併用している。正式名称としては、独立以来ずっと文語的な「ミャンマー」の方を使用してきており、1989年の英語表記変更によって内外の呼称が統一化されたことになる。歴史
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人のよるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。インドを支配するイギリスはビルマ王国(コンバウン王朝)に対して植民地になるよう一方的に通告、ビルマ側が拒否すると武力に訴えた。これを英緬戦争という。3次にわたる英緬戦争に敗れたビルマは1886年に英領インドに編入されてその1州となった。1937年、イギリスの自治領になる。1942年、アウン・サン|アウンサン将軍がビルマ独立義勇軍を率い日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐。しかし今度は大日本帝国|日本が占領し軍政を布いた。その後インパール作戦で失敗を繰り返すなど日本の敗色濃厚とみるやそれまで日本軍と行動を共にしていたアウンサン将軍はビルマ人の国を守るためイギリスについて抗日運動を指導した。日本軍に勝利したもののイギリスは独立を許さず、再びイギリスの植民地となった。1948年にビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7月にアウンサンは暗殺された。 初代大統領には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。 独立直後からカレン人が独立闘争を行い、共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に破れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。アメリカ中央情報局|CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で台湾政府と米国の策動に抗議した。また一方でシャン州に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マサラ)の最高指導者として、1988年まで軍事独裁体制を維持する。1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く。 同年9月18日に軍部がクーデターにより政権を掌握する。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。民主化指導者アウン・サン・スー・チー|アウンサンスーチーらは国民民主連盟(NLD)を結党するが、スーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁される。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。 スーチーは1989年から1995年まで、また2000年から2002年まで自宅に長期軟禁された。また2003年5月には地方遊説中に軍政側の襲撃を受け、その後現在まで自宅軟禁状態に置かれている。自由な政治活動が許されず、軍事政権の独裁が続いている。

